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日々の気づきをつらつらと

イデオロギーという概念について

イデオロギー”という言葉をご存知だろうか?

 

歴史教科書的な説明では、資本主義(自由)と共産主義(平等)のイデオロギー対決があり、90年代にソ連が崩壊してアメリカを中心とする資本主義陣営が勝利したと語られている。

 

その場合、国民国家という枠組みで語られているのだが、実はイデオロギーという概念はもっと射程範囲が広く、日常生活の隅々まで浸透している。

 

大企業で働いて多くのお金を稼いでいる人間が偉いんだというのもイデオロギーだし、派遣社員より正社員の方が身分は上だというのもイデオロギーだし、結婚し所帯を持つことが自然だいうのもイデオロギーだし、男性が女性を守るべきだというのもイデオロギーだし、男性は外で働いて女性が育児をするべきだというのもイデオロギーだし、逆に育メンでない男は男性として見られないというのもイデオロギーだし、映える写真をインスタにアップするのがカッコいいというのもイデオロギーだし、子供は親の教えを守るべきだというのもイデオロギーだ。

 

私の定義では、イデオロギーというのは、「ある価値観のもとに正常と異常をわけ、正常側の大多数マジョリティーが異常側の少数マイノリティーを差別的な上からの目線で見ようとする意識のことで、その意識は時代とともに変化していく」というものだ。

 

簡単に言えば、常識ということになろうか(ただ常識には時代が変わってもやはりそうあるべき、たとえば人のものを盗んではいけない、他人を思いやるべきなどの側面もある)。

 

そういう目線で見ていくと、世の中には様々なイデオロギーが溢れていることに気づく(その例は前記しておいた)。

 

ある種の価値観をともなった押しつけがましい信念、それがイデオロギーだ。

 

このイデオロギーが実に厄介な代物で、イデオロギーから私たちは自由になれるかというとそう簡単にはいかない。

 

私にイデオロギーはない、私は中立的な人間だという人間がいたとすると、そのこと自体がイデオロギーと化し、中立的な人間ではない人間を差別排除しようとする(客観性を声高に主張する科学もその点イデオロギー化することもあり得る)からだ。

 

じゃあ、私たちはイデオロギーから自由になれないのだろうか。

 

とりあえずの仮結論としての私の意見は、自分のイデオロギー性を意識しそれを他人に押し付けようとしないということ。

 

イデオロギーという概念で世の中を見ていくと、さまざまなイデオロギーが錯綜していることに気づけると思う。