Be Sophisticated

日々の気づきをつらつらと

自分が育った環境

自分の中にある攻撃性を抑えるのに苦労している(精神薬を服用しなければならないレベル)。

 

ついこの前もこっちにガン付けてくる若者ヤンキーがいたので、カッとなって飛びかかろうとする自分を必死に抑えて事なきを得た。ムカムカした胸を消化するのにはだいぶ苦労したが。

 

この攻撃性は、もともと過敏に興奮しやすい素質も多分にあるのだが、育った環境も影響していると思う。

 

自分の実家は今から思えば、決して教育にいい環境とは言えなかった。

 

学校の周りには家庭環境が複雑な子供たちが暮らす寂れた市営団地がたくさんあり、親に捨てられた子供たちが入所している養護施設があり、派手な格好をした女性たちが歩くネオンの夜の街があり、いかにもの格好をした屈強な体格を持った男たちが出入りするヤクザ事務所が家のすぐ近くにあった。

 

小学生のころは、みんな無邪気に遊んでいて、それぞれが抱える家庭のことなどおくびにも出さなかった。彼らはみんな明るかった。

 

しかし、中学生になる頃から彼らに変化が表れた。

 

彼らの攻撃性が表面化し、それに対抗できない子供たちは内にこもるようになった。

 

自分はといえば、身体はそれほどか弱いほうではなかったことと、負けん気みたいのはあったので、自分の学校では特別問題にはならなかった。

 

ただ、彼らの弱いものに対する攻撃を見ているのは嫌だった。

 

かと言って、自分は正義のヒーローほどの力はなかったので助けることはできなかった。

 

ただ、気分が悪かった。

 

そんな自分に、中学生3年生の時に事件が起きた。

 

態度が悪いってことで、隣の中学のヤンキー15人くらいに絡まれて、ボコボコにされた。

 

ボコボコにされている時に意外だったのは殴られるって思っていたほど痛くないんだなーってことだが、たまたま通りかかった勇気ある一人のオジサンが車から降りてきてヤンキーたちを気合いのある大声で追っ払ってくれて助かった。

 

身体的なケガは大したことはなかったのだが、逆にココロの方がやられた。

 

この時の惨めさはたまらなかった。

 

何よりも嫌だったのはそいつらに完全にビビってしまって、反撃できない自分がいたことだった。

 

力と気迫がない自分を心底見せつけられた。

 

心底情けなかった。

 

この時に、この弱い自分を見せつけられた時に、そんな弱い自分と向き合って、どうにかして乗り越えようと決意した。

 

いろいろ工夫をして、運動部に打ち込んだり、筋トレやったり、ストリートファイトやったり、極真空手やったり、坐禅修行をやったりした。

 

それをやってこれた自分がいたのは幸運だった。

 

ただ、ただ、自分は幸運だった。

 

長い時間だいぶは苦労したが...

 

自分は今強くなったかと言えばそれはわからないが、少なくとも前みたいにヤンキーにビビることはなくなったとは思う(ヤクザは別)。

 

こういう環境で育った人間だから、力なき正義は無能なり、を信じているんだろう。

 

ことばの奥深さは信じているが、ことばだけの人間はあまり信じていない。

力について

ちょっと刺激的なことを書く。

 

暴力の前でやっぱり言論は、無力とまでは言わないけど、弱いと思う。


ありていに言えば、ことばだけの美談家はネット世界でことばの言い合いで相手をこきおろせても、筋骨隆々のヤクザには現実世界でケンカになった時にかなわない。


朝倉未来が主催する格闘技大会のオーディションで、10人とケンカして勝ったことがあると"ことば"で豪快に言い放った若者がいた。


じゃあ、その若者を10人のヤンキーで囲んでみたらどうなるか、という企画だった。


全然話にならなかった。


じゃあ、朝倉未来だったらどうか。


彼には力(=暴力)があった。


10人相手にしても、キレのある動きで相手の攻撃をかわしながら、自分のパンチで多勢の相手を完全に圧倒していた。


一人のヤンキーが「未来さんの圧、半端ないから踏み出せなかったすよ」って言っていたのが印象的だった。


だいぶ論理を飛躍させるが、私たちは暴力(犯罪者集団)に対抗する暴力(警察/軍隊)の上でことばを交わせる平和を享受できている。その暴力、特に後者の暴力性と威圧性は普段は見えない。


暴力に対抗する暴力は必要だし、後者の暴力への敬意が日本では欠けているように思う(アメリカ人の軍人への敬意の高さは肌身で感じた)。


しかし、後者の暴力も暴力であることには変わりがない。


そこに"正義"というイデオロギー(私はここでは信念くらいの意味で使っている)を絡めるから、話しがややこしくなる。美談家はこのイデオロギーの"議論"が好きなだけだ。


力に対抗できるのは力だ(国連の無力さを我々は今この目で見ているはずだ)。


誰かが言った「力なき正義は無能なり」は真実だと思う。

Sent from my iPod

空港で

勤務先に戻ろうと思って成田空港に向かっていたら、高速道路の降りる場所を間違えてしまい遅刻。

早速やらかした。


幸い次の便が空いていたので、仕事に支障はなく済んだ(お金は無駄にしたが...)。


出発まで時間があるので、だらだら日記でも書くことにした。


時間つぶしにもこの純日記は役に立つと思った。


だから、あまり意味のないことを書くことになるのでご勘弁を。


でも思ったんだけど、日記って意味のあること(=誰かの役に立つ)だけが内容ではないはずだ。


くだらないことをとめどなく書きたくなることだってある。


そもそも私のやっている文章ジャンルが純日記だ。


普通の文章とは目的が違う。


文章の基本は読者を意識することだとされる。


学校で習う作文が嫌いになるのは、先生という評価者である読者を内面化させてしまい、書かされている感が強くなるからだろう。


社会人になっても上司やお客様を意識して文章を書く。誰もあなたの内面なんかに用はない。


読者を意識しすぎると余計な緊張感を自分に強いてしまう。


だから、だんだんモヤモヤしてきて、自分の感情を鬱積させてしまう。


その点、日記はいい。


自分の感情をことばにして吐き出すことでスッキリするからだ。


そのとき、誰かを意識しすぎてはいけない。


自分の感情にただ素直に、素直に、優しく寄り添ってあげるだけでいい。


自分自身が自分の感情の聞き手になる感じだ。


それはもはや自己カウンセリングだ。


そう、私は純日記をやることで、自分の感情の自己カウンセリングをしているんだ。


読者を意識しすぎると、私はまた自分の感情を抑圧してしまう。


私はカッコつけだからだ。


ごめんなさい、今私は読者でるあなたのことを意識していない。


ただ私は、私の感情のことを聞いてあげている。


純日記をしている。

おすすめはてなブログ

充電期間中に、いろいろと幅広くはてなブログを楽しく読んでいました。

 

その中で、私が見つけたおすすめブロガー5選を紹介します。

 

1.あままこさん

今の私が考える一流のブロガー。文章に学問的強度がある。本に出版されてもおかしくないレベル。まだ全部の記事に目を通せていないが、というか中身が濃すぎるのでしっかりと理解するには相当時間がかかる。もうちょっとゆっくり読みたい。際どいテーマにかなり鋭い視点で切り込んでいるので読み応えがあります。

 

2.たにしさん

男女の恋愛に関する理論は必見です。男女の性愛にまで深く踏み込んで分析をしています。個人的にはブログを読んでいて、ベストセラー作家の水野敬也の作品を思わせました。たにしさん自身の、恋愛という軽いことばでは表現できないほどの至高な純愛体験は、まるで映画を見るかのように感動的です。

 

3.ながみねさん

私は女性であると勝手に想像しましたが、筆のタッチがオンナオンナしていなく、ざっくばらんにというかかなり赤裸々に日常をつづっているので、リアルな迫力があります。文章に対する意識が高く、自分でミニコミ誌を発行するほどの強者です。

 

4.マルさん

自分の日常を、微笑ましく冴え渡る自虐ネタでつづる男性ブロガーです。仕事で悩んでいる中年男性は日本に結構多いと思うのですが、彼のブログを読んでいるとたかが仕事くらいのことで悩んでるじゃない、もっと日常を楽しもうと励まされます。いや、悩んでいる人を励ましてはいけません。癒してくれます。

 

5.(調査中)

まだ100人程度のブログしか読んでいないので調査中とさせてください。はてなブログは結構奥が深いので、もっといいのがあるような気がします。

 

個人的なセレクションです。勝手に編集部さんの仕事をやってしまいました。お許しを。

 

二週間の帰省も終わり、明日から単身赴任先に戻って仕事が始まります。

 

多分仕事が忙しくなって、今までのように頻繁に投稿できなくなると思いますが、また気が向いたら顔を出します。

 

私のブログに反応を返してくれたみなさん、ありがとうございました。またみなさんとゆるーくつながれたらいいなと思っています。

 

去る前に一言

イデオロギーに関してのブログを書いたのだが、そのイデオロギーに真正面からぶつかっている勇気ある"あままこ"さんというはてなブロガーがいた。

 

フェミニズム優位な"常識的"言説空間の中で、男性の男性による男性のことばの回復を目指す(私はそう理解した)記事は知的に刺激的だった。

 

はてなブログ、奥が深い。

妻が...

自分のことを"知らない"誰かとゆるーくつながりたくて始めたので、自分のことを知っている人にはこのブログの存在は知られたくない。

 

哲学書とにらめっこばっかりしていた旦那が、急にコソコソとノートパソコンをチャカチャカやり出したので、

 

「あんた何やってんの?」

 

って詰め寄ってきて、焦る。

 

ついでにインスタも始めたものだから、完全に・・・疑っている。

 

だからコソコソこのブログを書いている。

 

純日記ブログをやるのも一苦労だ。

メディアについて

インスタやり出して気づいたのだが、自分好みのファッションスタイルって、今まで自分が参考にしてきた日本の雑誌メディアより、世界中の人々が個人的に発信している情報の方が良かったりするんだなーって。

 

雑誌などのメディア会社は、よっぽど工夫して独自のコンテンツを作っていかないと生き残れないだろうなー。

 

逆に個人的に情報を発信している人は、あなたのメッセージがもしかしたら世界にいる誰かを励ましているのかも。

"いいね"について

哲学ばっかりにここ10年一人没頭していたので、時代の流れに大分遅れてしまっていて、SNSのいいね相互承認文化の存在を知識としては知ってはいたのだが、ケッ、なにがいいねだよ、仲間うちのただの褒め合いじゃねーかよ、ケッ、孤独が好きな俺には関係ねーよってこれまで斜めに構えていた。

 

デニムが元々好きで、とある理由で15kgダイエットに成功したので、いい歳こいて色気が出てきてしまい、大学生以来25年ぶりに上京して渋谷のセレクトショップに行ってみた。

 

ジーンズといえばアメリカのLevi'sとしか頭になかった自分にとって、そのショップで履いた日本人の体型向けに作られた日本オリジナルブランドのメイドインジャパンジーンズはフィット感が格別でかつスタイリッシュだった。

 

ミリタリージャケットも男らしさが上品に抑えられているいい感じに大人なものが置いてあり即決購入。

 

その足で恵比寿に行き、ずっと欲しかったカスタムオーダーのレースブーツを注文。

 

久しぶりに東京で服を買った自分は、もうすっかりオシャレ東京人になったつもりで、自己顕示欲を抑えられず、ついにインスタに手を出す。

 

次男に50枚くらい写真を撮ってもらい、とびきりのジーンズ姿の3枚を顔出しでアップ。あとは家族とか風景とか古本の写真で計12枚。

 

音沙汰なしの日々が一週間くらい続き、誰も俺のインスタなんか見る人いねーよなって諦めかけていた。

 

たまたまこちらが一方的にフォローしていたアメリカ人のジーンズショップのオシャレな店員が、アメリカで開かれたジーンズフェスのたくさんのジーンズ好きが集まった集合写真をアップしていて、その写真がとても良かったので英語でコメントを書いていいねを送ったら、普通に軽いお礼のコメントをもらった。

 

ここまではいい。

 

そしたら2日後、まったく知らないアメリカ人が自分の顔出しジーンズ3枚だけにいいねを押していた。

 

これにはびっくりした。

 

いろいろ調べてみるとその人はその集合写真に写っていた別のジーンズショップのオーナーだった。

 

このいいねには舞い上がった。

 

相手はフォローワーが鍵付きにも関わらず1万人を超えるプロなのに対して、自分はフォローワーは妻1人のみ。この友達がいないという惨状に対し、中学生の長男に同情される始末。

 

早速、そのアメリカ人に友達申請したら快く了承してくれて、鍵付きアカウントを開けてくれた。

 

「これがいいねの快感なのかー」

 

って、哲学にハマって10年くらい時代に遅れてしまったオールドルーキーの話でした。

うーん、ブログは難しい

読者の存在を意識するようになって、"純"日記じゃなくなっている感じがするなー。

 

かといって本当の日記も、ブログの味を覚えてからではつまらなく思えるしなー。

 

うーん、意外と純日記ブログって難しい。

文体が堅い

みなさんのブログを読んでいて、自分の文体が堅いなーっ、なんか本口調なんだよなーって気づいて、急に恥ずかしくなってきた。

 

イメチェン。

 

スーパードライ🍺飲みてーな!ソーダ割ウィスキー🥃飲みてーな!!マッカラン飲みたいっ!!!

 

(離婚寸前のアル中になって3年間断酒中→実話)

 

タバコ🚬とコーヒー☕️で我慢すっか。

子供向けYouTube

2歳になる三男と二ヶ月ぶりに会って、その成長の早さに驚くばかりなのだが、その遊び方を見ていて時代はやっぱり変わっていっているんだなーと改めて思う。

 

一番目を輝かせて遊ぶのが、スマホで見る子供向けYouTubeなのだ。

 

ベストセラーになったアンデシュ・ハンセン『スマホ脳』を読んでいただけに(その本で一番印象的だったのは、スティーブ・ジョブズスマホの中毒性を理解していたので、自分の子供たちにはスマホを買い与えなかったらしい)子供へのスマホは注意はしているのだが、どうしても見たがるので時間を制限した上で(30分〜1時間)見せることにしている。

 

特にお気に入りなのがトミカのミニカーを使った一般の人が作った動画。

 

消防車などのキーワードだけ入れてあげると、関連動画がズラリと出てきてあれやこれやと自分でタッチ操作をしながら選んで見ている。

 

一般の人がよく工夫して動画を作っているなーと感心する一方、これはかなり中毒性があると心配にもなる。

 

おかあさんといっしょ”のようなNHKの朝の子供向けテレビ番組には見向きもしない。

 

ラジオに変わってテレビが出現した時のように、新しいメディアの出現によって古いメディアはとって変わられていく、その新しいメディアの子供への影響について、テレビがそうであったように、古い世代の親たちは心配になるのだろう。

 

でも、新しく生まれてくる魅惑的な時代性を帯びたメディア文化を、誰も抑えることはできない。

 

できることは適度な距離を保つよう、親として心がけることくらいか。

イデオロギーは怖い

前回の投稿の続きです。

 

イデオロギーのことを語りだすと、その場がアツくなり出して炎上する危険性があります。

 

それはイデオロギーがある種の”政治的”価値観、その人の主義主張や生き方と密接に絡み合っているからです。

 

イデオロギーに関することについては、あまり公衆の面前で語らない方が賢明です。

 

このブログでも気をつけます。

イデオロギーという概念について

イデオロギー”という言葉をご存知だろうか?

 

歴史教科書的な説明では、資本主義(自由)と共産主義(平等)のイデオロギー対決があり、90年代にソ連が崩壊してアメリカを中心とする資本主義陣営が勝利したと語られている。

 

その場合、国民国家という枠組みで語られているのだが、実はイデオロギーという概念はもっと射程範囲が広く、日常生活の隅々まで浸透している。

 

大企業で働いて多くのお金を稼いでいる人間が偉いんだというのもイデオロギーだし、派遣社員より正社員の方が身分は上だというのもイデオロギーだし、結婚し所帯を持つことが自然だいうのもイデオロギーだし、男性が女性を守るべきだというのもイデオロギーだし、男性は外で働いて女性が育児をするべきだというのもイデオロギーだし、逆に育メンでない男は男性として見られないというのもイデオロギーだし、映える写真をインスタにアップするのがカッコいいというのもイデオロギーだし、子供は親の教えを守るべきだというのもイデオロギーだ。

 

私の定義では、イデオロギーというのは、「ある価値観のもとに正常と異常をわけ、正常側の大多数マジョリティーが異常側の少数マイノリティーを差別的な上からの目線で見ようとする意識のことで、その意識は時代とともに変化していく」というものだ。

 

簡単に言えば、常識ということになろうか(ただ常識には時代が変わってもやはりそうあるべき、たとえば人のものを盗んではいけない、他人を思いやるべきなどの側面もある)。

 

そういう目線で見ていくと、世の中には様々なイデオロギーが溢れていることに気づく(その例は前記しておいた)。

 

ある種の価値観をともなった押しつけがましい信念、それがイデオロギーだ。

 

このイデオロギーが実に厄介な代物で、イデオロギーから私たちは自由になれるかというとそう簡単にはいかない。

 

私にイデオロギーはない、私は中立的な人間だという人間がいたとすると、そのこと自体がイデオロギーと化し、中立的な人間ではない人間を差別排除しようとする(客観性を声高に主張する科学もその点イデオロギー化することもあり得る)からだ。

 

じゃあ、私たちはイデオロギーから自由になれないのだろうか。

 

とりあえずの仮結論としての私の意見は、自分のイデオロギー性を意識しそれを他人に押し付けようとしないということ。

 

イデオロギーという概念で世の中を見ていくと、さまざまなイデオロギーが錯綜していることに気づけると思う。

哲学は好きではないですか?

前回のブログで読者の存在が実感できたので、だからといってカッコつけるのも嫌なので、自分にやっぱり正直になってもっと自分の素性を明らかにして、仲間を見つけられたらいいなと思うようになった。

 

突然ですが、あなたは哲学が好きではないですか?

 

高校時代から「人間とは何か?」「どう生きるべきか?」「今の自分で本当にいいんだろうか?」「強くあるためには何をすべきだろう?」「本当の優しさってどういうことだろう?」といった抽象的な人生の悩みが頭に引っかかり出して、大学では法学部に入ったのだが、また大学受験と同じ暗記ものかよって全く面白くなく、親の反対を押し切って文学部に転部。

 

文学部に転部しようと思ったのは、高校時代のある国語の先生の授業がきっかけだった。

 

その先生はとても変わっていて、二日酔いと巨人が負けた日は自習にするような先生だった。

 

でも国語の実力は本物で、自分で小説を書いて文学賞を受賞して1000万円を獲得する先生だった。

 

とある授業の日、今日は自分が書いた詩を読んでみるからって、カバンから自分の詩集をおもむろに出して、急に読み出した。

 

25年近くも前の話だが、その光景は今でも鮮明に覚えている。

 

その先生が子どもについての自分の詩を朗読し始めると、教室はシーンと静まり返り先生の声がよく響いて、まるで音楽ホールでオーケストラを聞いているかのように、聴衆である生徒たちは静かに聞き入り、朗読が終わった瞬間、皆が一体感に包まれて拍手を送っていた。

 

この光景には驚いた。

 

進学校の知識押し込み型の退屈な授業とは打って変わって、先生が作った自分のことばだけでこんなにも人を魅了できるのかが不思議でしょうがなかった。

 

その経験が前段階としてあって、大学で文学部に転部した後の授業はとても刺激的なものばかりだった。

 

夏目漱石芥川龍之介三島由紀夫大江健三郎シェイクスピア、スティーブンソン、ブロンデ、ウルフ、メルヴィルホーソンヘミングウェイギリシア悲劇アメリカ映画・・・ありとあらゆる文学作品を読みまくって興奮した。

 

文学作品と並行して、その当時の大学の文学部では文学理論が流行っていた。

 

この文学理論が、自分のこころにグサリと突き刺さって、自分の心をわし掴みにした。

 

もともと数学が得意だった抽象的思考型の自分にとって、乱雑に溢れる文学作品をスッキリと説明しようとする文学理論は魅力的だった。

 

当時の文学理論はフランス現代思想をベースにしたもので、ポスト構造主義ロラン・バルトジャック・デリダ、ジル・ドゥールズ、ジャック・ラカンミシェル・フーコー)が全盛の時代だった。

 

その当時の自分にとって、1960年代の構造主義までの文学理論は理解できるのだが、1970年代以降のポスト構造主義が全く理解できなかった。

 

これが悔しくてしょうがなくて、大学を出て社会人になっても文学理論というか現代思想を独学でやり続けた。

 

やっと、こういうことなのかもしれないってわかるような気がし始めたのが、30代後半だった。

 

現代思想にどっぷりハマっているうちに文学のことなんかサッパリ忘れて、ますます抽象的思考にハマるようになってしまい、いつの間にか哲学をやり出すようになっていた。

 

ソクラテスプラトンアリストテレスデカルト、カント、マルクスキルケゴールニーチェフロイト・・・

 

最近はドイツの哲学者であるヘーゲルにハマっていて、絶対という概念について考え続ける日々を送っている。

 

私の今回の話があなたをドン引きさせているのは、よーくわかります。

 

哲学なんかやっても人生の何の役にも立たない、金にもならない、抽象的概念のことなんかなんで考えているんだろうって、自分でもあまりうまく説明できないんですけど、その哲学に引っかかり続けている自分がいるんです。

 

今回の投稿はスルーして頂いて結構です。

 

もし自分以外にも哲学が好きな人がいたら、連絡もらえると嬉しいです。